コンテンツへスキップ

月刊Hanada2019年9月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

第二の「クヒオ大佐」?

  出崎の人物像を知る上で欠かせないのは、ユーチューバーとしての過去である。JETプログラム(語学指導等を行う外国青年招致事業)の英語の補助教員として来日し、「Racism in Japan 日本に人種差別はありますか?」という動画をつくって高校生に与えた話はすでによく知られているし、出崎自身が映画の冒頭で使っている。

 しかし、日本の国籍を持たず、日本の教員免許を持たない出崎が、このような社会的問題に関わる私見を生徒の前で開陳すること自体、問題である。彼の行動は、JETプログラムの趣旨を汚すものである。

 また、出崎が女装して日本の若い女性の口まねをし、日本人女性を侮辱する動画をつくっていたこともよく知られている。藤岡もこの動画を見たが、最後に卑猥な言葉を絶叫するシーンで終わっていた。

 このことについては、本誌六月号でも山岡鉄秀が書いているので繰り返さない。今出崎は、この動画を著作権を理由に消し回っている。各種SNSでも、リンクが貼られている先を見ると、「この動画はMedama Sensei から著作権の侵害を申し立てられていますので、削除します」などのメッセージが出て視聴がブロックされる。Medama Senseiとは、出崎のユーチューバーとしてのペンネームである。

 自らトニー・マラーノの動画を商業映画に無断で使用して作者の著作権を侵害しておきながら、自分の動画については著作権を主張して削除を求める。とんでもない御都合主義だ。

 ここではさらにもう一つの、別の問題を指摘しておこう。

 映画「主戦場」は四月二十日から渋谷の映画館で一般公開されたのだが、その宣伝のため出崎は各種のメディアに登場した。ラジオでもいくつかの番組に出演した。

 ①四月二十四日、TBSラジオ「荻上チキ Session22」という番組で、出崎は梁澄子(日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表)とともにゲストとして出演した。

 ②四月二十五日、JーWAVE のJAM THE WORLD という番組で、ニューススーパーバイザーの堀潤がインタビューした。

 私が聞いたのは右の二つのラジオ放送の録音なのだが、極めて不自然に感じたことがある。出崎が藤岡のところに取材に来た時は、彼はごく普通の日本語を話す青年だった。なぜか、出崎は藤岡に対するメールでは、自分がアメリカ国籍を持つアメリカ人であることを一切述べていなかった。だから、藤岡は彼を普通の日本人だと思い込んでいたのである。

 しかし、①のラジオ番組で彼は日本語が出来ないふりをし、わざわざ通訳をつけて番組を進行させていた。ところが質問者が日本語で質問すると、間髪を入れず英語でいきなりベラベラと話し始める。それを通訳が日本語にする。出崎は完璧なバイリンガルである。だから、日本語が分からないというのは演技なのだ。不自然極まりない。

 ②の番組も通訳付きで始まった。ところが、しばらくすると、質問者が右に書いたのと同じ問題に気付いたらしく、いきなり「出崎さん、あなた、日本語が分かるのでしょう?」と言った。不意を突かれて戸惑う様子が聞こえ、出崎は「ええ、まあ、少しは話せますけど・・・」と、いかにも日本語を習いたてのガイジンがしゃべるようなたどたどしい日本語で答えた。それ以後、番組は日本語で会話が進行した。

 日本社会には、ときどき日本語と英語の狭間を利用した詐欺師が出現する。生粋の日本人でありながらカタコトの日本語を話す米軍の特殊任務を帯びたパイロットに擬装して、日本人の女性を次々にだました「クヒオ大佐」という結婚詐欺師がいた。   出崎は、気に入らない某出版社の取材を断るのに、自分は日本語ができず、通訳の手配がつかないという理由を使っている。こういう調子で、都合よく英語と日本語を使い分ける。こういう部分だけを取り出せば、出崎は第二の「クヒオ大佐」といえるかも知れない。

(続く)

月刊Hanada2019年9月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

●なぜ反日左翼の寵児なのか

  ところで、行動的な学者でもある吉見は、「慰安婦=性奴隷」説をひっさげて、異論を唱える人を狙い撃ちにする名誉毀損訴訟を行ってきた。しかし吉見の提訴は、一審から三審までの全てで敗北した。元朝日新聞記者の植村隆が櫻井よしこと文藝春秋を訴えた訴訟でも、去る二○一八年十一月九日、一審の札幌地裁で櫻井側の完全勝訴の判決が出たばかりである。その他、一連の慰安婦訴訟では、「性奴隷」派は連戦連敗である。

 司法分野だけではない。二○一六年二月、ジュネーブの国連人権理事会で、外務省の担当者は、「強制連行説」も「性奴隷説」も「慰安婦二○万人説」も、いずれも根拠がないとして否定したのである。行政が初めて真っ当なスタンスンに立ち返った瞬間だった。

 その二年前の二○一四年八月には、崩壊した吉田清治の証言の扱いについて頬被りを決め込んできた朝日新聞までもが、ついにその誤りを認め、のちに謝罪するにいたったのである。これはまさに、慰安婦問題で日本を糾弾したい勢力にとって、致命的な打撃となる出来事だった。

 このように、論争に負け続けて気息奄々だった「慰安婦=性奴隷」派にとって、出崎のドキュメンタリー映画の出現は干天の慈雨であり、出崎は彼らの希望の星となった。

 最近、映画「主戦場」に関わる記事を特集した月刊誌『創』八月号では、「メディアが慰安婦問題をタブーにしてきた」などとしきりに述べられているが、この論評は的外れである。メディアが慰安婦問題を取り上げなくなったのは、右に見たように、もし取り上げると朝日新聞の二の舞になりかねないからだ。

  だから、右の展開を体験していない、アメリカ国籍の外国人でもある出崎が反日左翼の寵児となったのである。しかし、映画「主戦場」が実質的に何を成し遂げたのかといえば、善意の保守系の言論人を誑かして血祭りに上げたことである。

 映画「主戦場」のインターネットのサイトには、映画の予告編がアップされているが、そこで前面に押し出されているのは、櫻井よしこを筆頭に、ほとんど専ら保守側の人物である。これらの人々は、出崎の映画の宣伝の出汁にいいだけ使われていることがわかる。

 映画の入場者の多くを占めるであろう左翼・リベラル系の人々や、海外の反日ジャーナリストは、映画の中でにっくき保守系の連中が嘲笑・侮辱されていることに快哉を叫んだ。四月四日、外国特派員協会における試写会に出席した、原告の一人である藤木俊一は、試写会の様子を次のようにレポートしている。

  「このフィルムは、われわれに先にインタビューし、それに対して左翼が反論を行っているので、完全に『一方通行』の内容となっており、各段階で(強制か否か、高給取りだったか否かなど)左翼・朝鮮人たちが、われわれ側の発言を覆した部分で終わっており、その度に会場の白人たちが大歓声を上げるという異様な雰囲気の試写会であった」

 その反面、この映画が何か新しい材料を提供したり、何らかの論点を解明したりしたかといえば、そうした成果は何一つない。

 例えば「慰安婦二○万人説」の検討にしても、吉見は仮定の数字をいろいろこねくり回しているが結論は曖昧のままであり、そこで上げた数字は多数の仮定の積み重ねの上に立って、数万人のオーダーのものであり、その発言の中に二○万人説を正当化するに足るものは何もなかった。

 この点に関連して、ここで重要な論点を提示しておきたい。六月三日の記者会見で、会場から「歴史修正主義者」の定義を聞かれた出崎は、「慰安婦は二○万人で、強制連行され、性奴隷であったというのが世界の通説だ。この通説に反対する者は歴史修正主義者である」と答えた。

 そうすると、「強制連行」の証拠がないと言い、「二○万人説」を映画で言わなかった吉見は「歴史修正主義者」になる。それだけではない。監督の出崎も、映画で「二○万人」という結論を出さなかったのだから、立派な「歴史修正主義者」である。

 その他、映画に登場する多数の左翼活動家も「歴史修正主義者」である。WAM(女たちの戦争と平和資料館)の渡辺美奈などは映画の中で、「大きい数字が出てくると、すぐにそれを言いたくなるが、そうしてはならない」と戒める発言をしている。彼女もまた「歴史修正主義者」である。  出崎がいかに無責任で、物事の論理的帰結に関心を持たない、その場その場でいいかげんなことを言って恥じない、デタラメな人物であるかがよくわかる。

(続く)

月刊Hanada2019年9月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

決着がついた慰安婦論争

  出崎は映画「主戦場」の監督として、今や「慰安婦=性奴隷」派からは、慰安婦問題復活の救世主であるかのようにもてはやされている。ネットでも紙媒体でも、「映画に感動した」「出崎監督は素晴らしい人だ」「この映画を観て、やっと溜飲を下げた」などの熱烈なラブコールがあがっている。ツイッターなどでの称賛の文言があまりにワンパタンなので、多数の人間に指示し組織的に投稿させているという見方も生まれているほどだ。

 ようするに、今や出崎は慰安婦問題の逆転を狙う勢力の期待を一身に集めた、「慰安婦=性奴隷」派の寵児となっているのだ。

 なるほど、出崎に対し、それらの賛辞を浴びせている人々の気持ちも分からないではない。慰安婦問題については、これが日本社会の政治的・社会的問題として提起された一九九一年以来、幾多の論争が積み重ねられてきた。

 その中で早くも一九九二年には、歴史家の秦郁彦が、韓国・済州島の現地調査によって詐話師・吉田清治の「慰安婦奴隷狩り」体験記の嘘を暴いた。また、朝鮮半島現代史の研究者・西岡力は、元慰安婦を自称する韓国人老女へのインタビューなど徹底的な調査によって、元慰安婦の誰一人として軍や官憲による「強制連行」の事実を整合的に証言できた者がいないことを立証した。

 こうして、一九九二年段階ですでに、「慰安婦強制連行説」が虚構であることは、学問的・実証的には結論が出ていたのであった。

 さらに、同時期の日本政府の調査によっても、一九四四年十月のビルマにおける日本軍慰安所と慰安婦に関する米陸軍心理作戦班の作成した公文書によって、「彼女らは軍に付いて歩く売春婦に過ぎない」ことが明らかにされていた。

 さらにさらに、今では「慰安婦=性奴隷説」を唱え続けるほとんど唯一の歴史研究者と言っていい吉見義明だが、一九九六年十一月三十日に放映されたテレビ朝日の番組「朝まで生テレビ!」で、他ならぬその吉見が「朝鮮半島では強制連行の証拠はない」と言い放ったのである。これで、慰安婦論争は事実上、「ジ・エンド」となったのだ。

 「強制連行はなかった」という仮説をもって調査する者は、強制連行の証拠を探すに際してそれほどの熱意を持てないのが人情だが、吉見はその正反対で、相当の執念をもって慰安婦強制連行の証拠を探したはずだ。その吉見ですら見付けることができなかったのだから、他の者については何をかいわんや、強制連行の証拠を発見する見込みはない。

「四つの自由」論の愚劣

  慰安婦強制連行説が頓挫すると、どうしても慰安婦問題をネタに日本を糾弾したい者たちは、二つのコースに分かれることになった。というか、論理的に考えて二つの道しかないのである。一つのコースは、あくまで事実の世界にとどまって、証拠を朝鮮半島の外に探し、証拠らしきものを「製造」することだ。

 実際にこの道をたどったのが、インドネシアを初めとする東南アジアの各地に出かけていった弁護士や活動家の一群である。

 もう一つのコースは、強制連行の話は諦める代わりに、言葉の定義を変えることだ。いわば、事実の世界から逃避して、概念いじりをすることによって自分たちの日本国家糾弾の正当性を維持しようとするものである。この道を行ったのが吉見義明だった。

 彼は、軍慰安婦の境遇が「性奴隷」であったということを強調し、「奴隷」の概念を恣意的に変えてしまおうとする。吉見の提唱する「四つの自由」論は、こういう問題意識から吉見がこしらえ上げたものだった。

 吉見のいう四つの自由とは、居住の自由、外出の自由、接客の自由(=接客拒否の自由)、廃業の自由を指す。吉見によれば、この四つの自由がない者は「奴隷」であると定義される。それゆえ、日本軍の慰安所は「性奴隷制度」であったとする。

 もしそうだとすると、遠洋航海に出る漁師は、吉見の定義によって「奴隷」となる。遠洋航海では何ヶ月も船に乗ったきりだから、居住の自由などあるはずがない。外出の自由も、廃業の自由もない。

 ただし吉見の定義では、四つの自由の全てが失われていなければ奴隷とは言えないのか、それとも一つでも失われていれば奴隷になるのか判然としない。それによって、戦地の軍慰安婦の位置づけがまるで変わってくる。

 もし、四つとも自由が失われていることが条件ならば、軍慰安婦は断じて奴隷ではない。前出の米軍の公文書によれば、ビルマのミートキーナの慰安所にいた慰安婦には、外出の自由も、接客の自由も、廃業の自由もあったからだ。ただし、居住の自由はなかった。戦地だからこそ慰安婦に自由に住居を選ばせたら危険この上もなかっただろう。

 こんなことは、愚にもつかない言葉の遊びに過ぎない。こんな「理論」を大真面目に振り回して、「慰安婦=性奴隷説」を喜ぶ読者にリップ・サービスしているのが吉見義明の実像である。

 吉見は映画「主戦場」のなかで、唯一「歴史家」の肩書きで遇され、出崎は吉見のご託宣を押し抱き、その言葉の一言一句が真理であるかのように扱われているが、その理論の実体は、右のような愚かなシロモノである。

(続く)

月刊Hanada2019年9月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

被害者七名の「共同声明」

  日系二世で、アメリカ国籍を有するノーマン・ミキ・デザキ(Norman Miki Dezaki/日本名・出崎幹根)が、上智大学の大学院生の肩書きをフルに利用した詐欺的な手口で、「慰安婦=性奴隷説」を否定する保守系論者を人格攻撃するドキュメンタリー映画「主戦場」を製作したことを前号で述べた。

 被害者八名のうちの七名は見解を「共同声明」としてまとめ、去る五月三十日、日本記者クラブで開催した記者会見にて公表した。なお、藤岡のもとにデザキは「出崎幹根」という日本名を名乗って現れたので、以下では、原則としてその日本名を用いることにする。

 共同声明のメイン・タイトルは「映画『主戦場』の上映差し止めを求める」で、サブタイトルは「上智大学修士課程卒業制作を擬装し商業映画を制作した出崎幹根の違法行為について」となっている。署名者は、加瀬英明、ケント・ギルバート、櫻井よしこ、藤岡信勝、藤木俊一、トニー・マラーノ、山本優美子である。

 A4判十ページの共同声明の小見出しは、次の通りである。

 (1)商業映画への「出演」は承諾していない

 (2)「大学に提出する学術研究」だから協力した

 (3)合意書の義務を履行せず

 (4)本質はグロテスクなプロパガンダ映画

 (5)ディベートの原則を完全に逸脱

 (6)目的は保守系論者の人格攻撃

 (7)デザキと関係者の責任を問う

 これによって、おおよその内容を覗うことが出来るだろう(共同声明のテキストの全文は、ネット上で読むことが出来る)。

  なお、共同声明に署名しなかった一人は衆議院議員の杉田水脈で、杉田の場合、仮に不本意な映像を撮られたとしても、国会議員として肖像権の主張には一定の制約があることから、他の七名の民間人とは立場が異なるという事情によるものだった。

出崎と配給会社を提訴

 タイトルが示す通り、共同声明の趣旨は、映画「主戦場」の「監督」である出崎(当時は上智大学大学院生)の、真の目的を隠した詐欺的な取材方法と、映画の中で被害者らに対し「歴史修正主義者」などの不当なレッテルを貼るなど、被害者らの人格を侮辱したことを問題としたもの。

 これに対して出崎は、映画の配給会社である合同会社東風(代表社員・木下繁貴)と、弁護士・岩井信とともに、六月三日、東京弁護士会館で記者会見を開き、被害者側の共同声明に反論するとともに、上映差し止め要求に対して明確な拒否回答を行った。

 こうしたことから、被害者側は受けた被害の深刻さに鑑み、六月十九日、東京地裁に民事訴訟を提起する訴状を提出し、その後、地裁内の司法記者クラブにて記者会見を開いた。

 原告は共同声明に署名した七名のうち、ケント・ギルバート、トニー・マラーノ、藤岡信勝、藤木俊一、山本優美子の五名で、櫻井よしこ、加瀬英明は諸般の事情で原告には加わらなかった。被告はノーマン・ミキ・デザキ(出崎幹根)と合同会社東風で、請求は、

 ①ドキュメンタリー映画「主戦場」を上映してはならない

 ②被告らは連帯して、原告ケント・ギルバートと同トニー・マラーノに対して、それぞれ五○○万円を支払え

 ③被告らは連帯して、原告藤岡信勝、同藤木俊一、同山本優美子に対して、それぞれ一○○万円を支払え

 ④訴訟費用は被告らの負担とする

 ⑤右の①から④につき仮執行宣言を求める

というものである。

  請求原因の理由は、(1)被告が原告トニー・マラーノのYouTube動画を本件映画において無断で使用したことは、原告マラーノ、同藤木(藤木はマラーノの動画を日本向けに編集する「テキサス親父日本事務局」の事務局長で、マラーノの動画の共同著作権保持者)の著作権を侵害する不法行為であること(2)原告らは意図に反して本件映画に「出演」させられているが、そのことによって原告らにも著作権が生じ、原告らは被告の学術研究及び卒業制作のためにインタビューを受けることに合意していたにもかかわらず、被告が原告らに無断で不特定多数に商業的に公開する映画に使用したことは、承諾書・合意書で定めた義務に反する違法行為であり、かつ、原告らの著作権、肖像権、同一性保持権を侵害する不法行為でもあることなどである。

(続く)

月刊Hanada 2019年8月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

「指導教官」中野晃一の責任

 そのなかで中野は、なんと映画「主戦場」の宣伝を買って出て紹介し、「実はこれ、私の教え子つくった映画でありまして」と、みずから出崎の指導教官であることを名乗り出たのである。しかも、その講演のなかで中野は、驚くべきことを述べていた。言葉どおりに文字起こしした発言を引用する。(傍線は引用者)

 《ちょっとひとつ宣伝をさせてください。お手持ちのチラシの中に、この映画のチラシが入っていると思うんですが、よくご覧いただくと私も│[出演者の写真で]櫻井よしこの上、杉田水脈の隣という非常に微妙な位置に顔があるんですけれども│この映画に関わっておりまして、出てるだけではなくて、実はこれ私の教え子がつくった映画でありまして、修士の院生だったんですね。オリジナルカットのものが修士論文に代わる学位を取るための制作物で、ちょっと変わってるんですね》

 《その後、さらに編集やったり音楽入れたりとかですね、いろいろこれ本当に手弁当で、クラウドファンディングで少しお金集めただけで、本当に低予算で手作りなんです。もともとユーチューバーで、ビデオをつくって動画を載せたりした経験はあるんですけれども、そんな彼がですね、つくりました》

 中野は、「オリジナルカットのものが修士論文に代わる学位を取るための制作物」(A)であるとし、「その後、さらに編集やったり音楽入れたり」してつくった映画(B)とをキチンと分けて説明している。「合意書」で藤岡らが許可したのは(A)についてであって、それを(B)に転用することは、すでに見たように「合意書」8項で明確に禁止しているのである。それは、契約違反・不履行に当たる違法行為であり、かつ、映像・音声の無断使用という著作権・肖像権・人格同一権を侵害する不法行為でもある。出崎のみならず、それを幇助した「指導教官」中野の責任も免れがたい。

 中野は出崎が、ユーチューバーとして、女装して日本人女性を侮辱する動画をつくったりした過去を知っている。それでいて、その「教え子」の違法につくられた映画を宣伝までしてやっているのである。この師にしてこの弟子ありと言われても仕方がない。

大学の規則にも違反

 上智大学の規則を調べて見ると、「上智大学『人を対象とする研究』に関するガイドライン」というものが制定されている。ここで「人を対象とする研究」とは、今回の出崎の「卒業制作」のように、人に対してインタビューを行い、それをデータとしてまとめる研究などのことである。

 藤岡らは、出崎の研究の研究対象者であり、研究協力者でもある。そして、研究の公表に当たっては、研究対象者の人権が守られなければならないとしてきびしい審査が課せられており、この審査をパスしなければ研究に着手することが出来ない仕組みになっている。大学としては、研究倫理について大変しっかりした基準を設けているのである。

 ところが出崎の研究については、この審査を受けた形跡がない。毎年審査結果として、審査に合格した者のリストがネットにも公表されているのだが、該当する年度とその前後の年度を調べても、出崎の研究を合格したリストの中に発見することはできなかった。

 右の「ガイドライン」には、事前審査を受けなければならない研究かどうかを自ら確認するための二十四項目のチェックシートが付いている。その一番目には、「研究対象者が何らかの身体的または精神的な負担、不快、苦痛あるいは危険性を伴う可能性がある」という項目が据えられており、出崎の研究は、まさにこの可能性があるものだった。

 現に、藤岡らは名誉まで毀損され、耐えがたい苦痛を感じるほどになっている。各項目には〈yes no〉の選択肢が置かれ、二十四の項目のうち、ひとつでもyesがあれば審査を受けなければならないことになっている。出崎の研究は、一つどころか沢山の項目が当てはまるものである。  今後、藤岡らは、出崎と配給会社東風に対し司法的手段に訴えるとともに、出崎と中野の研究倫理違反の恐れのある行為に関して、上智大学に常設されている告発窓口に被害者として問題を提起する予定である。

(参考)中野晃一教授が出崎監督の指導教官であることを語っているシーン

月刊Hanada 2019年8月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

 第二に、出崎は「卒業制作」として大学に提出した映像を、商業目的で配給する映画に転用したが、これは「他の映画等の作成に使用することがないこと」という「合意書」8項の禁止条項に明確に違反する。多くの人は錯覚しているかもしれないが、商業的に公開されている映画「主戦場」は、私たちが合意した「卒業制作」とは別のものである。

使用禁止条項を蹂躙

 まず、タイトルからして違う。合意書には、「歴史問題の国際化に関するドキュメンタリー映画」とわざわざ下線まで施して書かれている。この映画に登場することを藤岡らは承諾したが、商業映画「主戦場」に出演するつもりはなかった。

 両者は制作主体からして違う。卒業制作は、もちろん制作主体は出崎だが、映画「主戦場」の著作権は、劇場で七百円で売っている公式プログラム(28ページ建ての冊子)には、「C(○で囲む)NO MAN PRODUCTIONS  LLC」と書いてある。LLCは、日本語で言えば有限(合同)会社である。

 つまり、映画「主戦場」は、「ノーマン・プロダクションズ」という会社が制作し、同社が著作権を有しているのである。この会社の作品に藤岡たちの映像を使うためには、藤岡たちはノーマン・プロダクションズ社と契約を結んでいなければならないが、そんな契約はどこにもない。結局、出崎は「合意書」の禁止条項を蹂躙して、卒業制作とは異なる「他の映画」の作成に無断転用したのである。

 一体全体、大学に提出した制作物を、研究対象者・研究協力者に無断で商業利用するなどということがあり得るのだろうか。こんなことを認めているらしい上智大学とはいかなる大学か。「指導教官」は誰で、何をしていたのか。こんな疑問がすぐに浮かぶ。

 そこで、今回被害者となった藤岡、藤木、山本の三名(順序は五十音順)は四月二十七日付けで、インタビューに訪れた三人の大学院生の在学期間や、指導教官は誰か、などを問い合わせた。これに対して、五月九日に上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科の委員長(David Wank)から回答があった。大学院生本人の許可がなければ教えられないという返答であった。その後、指導教官の氏名だけは、全く別のルートから判明した。ご本人が公の場で名乗ったからだ。  四月十九日、参議院の議員会館一階講堂で、「戦争をさせない一○○○人委員会」と「立憲フォーラム」という団体の主催で、「安倍政治を終わらせよう! 4・19院内集会」という会合が開かれた。この集会で上智大学教授の中野晃一は、「政治を変える! プログレッシブ連合へ」と題して講演をおこなった。この模様はYouTubeでネットに流されたので、誰もが見ることができる。

(続く)

月刊Hanada 2019年8月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

的外れな論評

 第一に、出崎は藤岡の映像・音声を、「撮影時の文脈から離れて不当に使用」した。藤岡は映画「主戦場」の中で、「国家は謝罪してはいけない。国家は謝罪しないというのは基本命題だ。国家は、仮にそれが事実であったとしても、謝罪したらその時点で終わりなんです」と発言している。これをドキュメンタリー制作者の大島新は、「あまりにもあけすけで、無防備な発言」と評している(文春オンライン、六月十一日)。しかし、それは全くの的外れである。この発言は、口にすることがはばかられるような性格のものではない。

 藤岡はこの発言を、アメリカを念頭において行った。アメリカは第二次世界大戦末期に、日本に原爆を投下して多数の無辜の人々を殺害するという、大戦中でも最大・最悪の戦時国際法違反を犯した。これはまぎれもない事実だが、これについてアメリカは、日本に一度も謝罪していない。オバマ前大統領が広島に来たのは、生きのこりの男性被爆者の肩を抱いて共感の意を表現しただけで、国家として謝罪したのではない。アメリカだけではなく、かつて植民地を持っていたヨーロッパの国で、旧植民地国に謝罪した例はない。藤岡は事実を述べただけである。

 これは事実であるだけでなく、国家間のあり方の原則だ。かつて戦争をした国同士でも、いったん講和条約を結んで戦争に終止符を打った後には、戦争中の出来事について相手国に謝罪したり、謝罪を求めたりしないのが国家間のルールである。日本だけがいつまでも謝罪を求められ、かつ謝罪しているのは、日本が完全に独立した国家ではないことの現れである。

 さて、映画「主戦場」では、藤岡の発言の直後に、レーガン大統領が第二次世界大戦中に強制キャンプに入れられた日系アメリカ人に一律二万ドルの補償をした上で謝罪する映像を、これ見よがしに流した。「ほら、アメリカという国家もこのように謝罪しているではないか」と言いたいのだ。藤岡は事実に反する嘘をついている、というのが映画が藤岡に加えた非難である。

 だが、これほど愚かな話はない。「国家は謝罪しない」という命題は、国と国との間、国家間の関係について述べたものであって、一つの国家の中での政府と国民の間の関係について述べたものではない。レーガン大統領が謝罪した相手は、強制キャンプで辛酸をなめた日系人であり、彼らはれっきとしたアメリカ国民だったのだ。

発言の文脈を無視

 国家は国民の間で差別的処遇をしてはならないというのは、近代国民国家の存立の基礎であり、国家の大原則である。だからレーガンは、この件について犠牲者に謝ったのだ。これは政府(国家)と国民の間の関係である。日本だって、公害で敗訴すれば国家は謝罪することがあるし、最近の例ではハンセン病の患者のかつての処遇について安倍首相が謝罪したが、これは国家間ではなく国家と国民の間の関係であるから、誰も原理的には問題視しない。

 全ての単語は、それが発せられる場の文脈のなかで意味をもつ。文脈を無視して単語の意味を確定しようとすることは、日常の会話においてさえ不可能である。慰安婦問題とは国際問題だと、出崎自身がメールでも文書でも繰り返し述べているではないか。合意書にすら、卒業制作のテーマを「歴史問題の国際化」だと出崎は書いているではないか。慰安婦の半数は日本人で、朝鮮半島の出身者よりもはるかに多かったのだが、元日本人慰安婦で国家を訴えたケースは存在しない。これだけでも、韓国人慰安婦の証言の信憑性を疑うに十分な事実である。

 「国家は謝罪しない」という命題が語られる文脈とは、国際関係を論じている場の話であり、国家と国民の間の国内問題は視野に入っていない。映画のつくりは、原理的に異なる二つの文脈を混同し、映画制作者の無知をさらけ出したのだ。

 ジャーナリストの江川昭子も、「国家が過去を謝罪する問題について、米国の戦時中の日系人強制収容問題という国内問題を対比させて、日本を批判するのはアンフェアの一例」(五月七日発信)とツイッターに書いた。何も特別なことではなく、常識のある人ならだれでも気付くことなのだ。

 右のような混同を犯すとは、制作者には社会科学の基本的な概念すらないことの表れである。この誤りは致命的で、藤岡が指導教官ならこれだけで落第点を出す。出崎の指導教官はどうしてこれを合格させたのか、上智の教育のレベルは一体どうなっているのか、心配である。

(続く)

月刊Hanada 2019年8月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

「承諾書」から「合意書」へ

 帰国後の九月三十日、出崎からメールが届いた。「先日、[テキサス親父事務局の]藤木俊一さんにインタビューさせていただきまして、その際に新しい合意書を作成致しました。添付をご確認くださいませ。ご覧いただき、こちらでご承諾頂けるかご確認頂けますでしょうか?」という文面だった。添付されていたのは別掲の文書(合意書)だった。

 合 意 書

出崎・ノーマン・エム(以下「甲」という)と、藤木俊一(以下「乙」という)は、甲の製作する歴史問題の国際化に関するドキュメンタリー映画(以下「本映画」という)について以下のように合意する。

1.甲やその関係者が乙を撮影、収録した映像、写真、音声および、その際に乙が提供した情報や素材の全部、または一部を本映画にて自由に編集して利用することに合意する。

2.乙が甲に伝えた内容は個人の見解であり、第三者の同意を得る必要、または第三者に支払いを行う必要がないことを確認する。

3.本映画の著作権は、甲に帰属することを確認する。

4.本映画の製作にあたって、使用料、報酬等は発生しないことを確認する。

5.甲は、本映画公開前に乙に確認を求め、乙は、速やかに確認する。

6.本映画に使用されている乙の発言等が乙の意図するところと異なる場合は、甲は本映画のクレジットに乙が本映画に不服である旨表示する、または、乙の希望する通りの声明を表示する。

7.本映画に関連し、第三者からの異議申立て、損害賠償請求、その他の請求がなされた場合も、この責は甲に帰するものであることに同意する。

8.甲は、撮影・収録した映像・写真・音声を、撮影時の文脈から離れて不当に使用した り、他の映画等の作成に使用することがないことに同意する。

本書を2通作成し、甲乙ともに本書に署名・捺印致し、それぞれに保管するものとする。

 このメールで、藤岡は藤木も出崎のインタビューを受けていたことを初めて知った。この間、ジュネーブへの往復などで藤木とは頻繁に会う機会があったが、どちらからも出崎の取材の話は出なかった。普通、誰の取材を受けたなどとは、特別のことでもない限り他人に話さないものである。ここまでのところは、出崎のインタビューを受けたことの中に、藤岡にとって「特別なこと」は何もなかった。

 ただ、藤木の場合も、映像・音声機器の開発・販売の会社を経営し、ビジネスの世界で生きてきたので、出崎の承諾書を見て、藤岡が外国のテレビ局の契約書に感じたと同様の異様な片務性を感じとったに違いない。

 その合意書を読んだ藤岡は、これは比較的よくできていると思った。5・6・8項に、取材対象者の権利がキチンと書き込まれているからだ。藤木は相当注文を付けたに違いない。そこで、合意書の「藤木」を「藤岡」に変えて送るように返信した。

 時が流れて約二年後の二○一八年五月二十一日、出崎は藤岡のインタビューの映像を送ってきた。ところで、それは「クリッピング」だという。全編はいずれ改めて送ってくるのだろうと藤岡は思った。自分だけの映像なら見る必要もない。それが映画の全体の中にいかに組み込まれているのかが重要だ。

 例えば、藤岡の発言の前に、「『歴史修正主義者』の藤岡はこう語る」というナレーションを入れて藤岡の映像を入れても、クリッピングを見ただけではその処理はチェックできない道理だ。そして、これは実際に起こったことなのだ。

 後で分かったことだが、藤岡がサインした合意書は、確かに藤木が全体的に手を入れたものだった。出崎のつくった「承諾書」という文書名を「合意書」と変更し、「甲・乙」で表記する形式にしたのも藤木の修正だった。何よりも重要なのは、「承諾書」にあった次の一項が「合意書」にはないことだ。

 《5 製作者またはその指定する者が、日本国内外において永久的に本映画を配給・上映または展示・公共に送信し、または、本映画の複製物(ビデオ、DVD、または既に知られているその他の媒体またはその後開発される媒体など)を販売・貸与すること》

 これほど詳細かつ具体的に、制作者側のやりたい放題の権利を書き込むとは、ずうずうしいにもほどがある。「合意書」でこの5項が拒否され、明確に否定されたことは、今配給会社を通して上映されているような事態を「合意書」が認めていないことを意味する。

  それだけではない。「合意書」には

 《8 甲は、撮影・収録した映像・写真・音声を、撮影時の文脈から離れて不当に使用したり、他の映画等の作成に使用することがないことに同意する》と書かれている。出崎のその後の行動は、この規定を破っていることが明白だ。この点に関して、二つの重大な事実を指摘したい。

(続く)

月刊Hanada 2019年8月号掲載

新しい歴史教科書をつくる会副会長
藤岡信勝

衣の下の鎧が見えた

 出崎の完璧と見えた作戦も、ほころびを見せた瞬間があった。それはインタビューの収録が終わってから、彼がインタビューの内容に関する権利関係について承諾書を用意して来たのでサインしてほしい、と切り出した時だ。〈今のインタビューは大学院の卒業制作のためであると言ったではないか。こいつは何を言い出すのか〉と藤岡は思った。

 藤岡がこのような反応をしたことには伏線があった。それより半年くらい前、ある外国のテレビ局の取材を受けた際に、契約書にサインを求められたのだが、その契約書の中味を見ると、取材者の権利だけを書き込んで、取材される側の権利には何も言及しない「やらずぶったくり」の内容であった。

 契約とは当事者の双方を縛るものであるはずだ。片方の権利だけを一方的に書いた契約書など、契約の名に値しない。そこで、藤岡は取材は受けたが、署名は拒否した。テレビ局というのは誠に傲慢で得手勝手なものである。結局、放送では藤岡の発言は全てボツにされ、別の人物が「軍国主義者」の「悪役」を演じさせられていた。

 そんな経験があったので、藤岡は出崎が承諾書を取り出す前に、出崎に対して「そういう類いの契約書にサインすることは私の趣味に合わない」と言って署名を拒否し、チームを追い返した。だから藤岡は、出崎が用意した承諾書なるものの中味を見ていない。

 この承諾書の一件は、あとから考えると、衣の下から鎧が透けて見えたようなものである。にもかかわらず、藤岡はその疑念を突きつめることなく、契約社会のアメリカかぶれの青年だから、欧米のテレビ局の悪しき慣習を模倣したのだろう、というくらいに考えていた。それほど、真面目な学生になり切った出崎の演技がうまかったということでもある。

 しかし今では、初めから商業映画をつくって日本の保守派を侮辱し、攻撃しようとした出崎の意図が明白になっている。おそらく、藤岡にサインを拒否されて出崎は計画が頓挫しかねず、大いに困惑したのだろう。取材日の三日後に、次のメールを藤岡に寄越した。以下は原文のままであり、[  ] 内は藤岡による最小限の訂正ないし補足である。

出崎から藤岡へ(2016.9.12

 《ドキュメンタリー承諾書の件ですが、私たちの指導教官と話しましたところ、藤岡先生の出演部分がドキュメンタリーを[の][中]核を占めるのであれば(そうなると思います)、やはり承諾書へのサインがなしには、ドキュメンタリーの製作へ着手することが難[し]いという(ルビ=ママ)言われました。

 ご提案させて頂きたいのですが承諾書に、以下の一文を加えるのはいかがでしょうか?「製作者は、出演者の姿・声の整合性を保ち、出演者の言葉を謝(ルビ=ママ)り伝える、あるいは、文脈から離れて使用することがないと、同意する」

 また、映画をご覧になって、ご自身が不正確に描写されているとお感じになった場合は、ドキュメンタリーの最後に先生が、本ドキュメンタリーにおける説明に異を唱えていらっしゃると付け加えます。しかし、藤岡先生の出演箇所を全て削除することは、新しいドキュメンタリーを製作しなければならず、修士を期限までに修了するためには、再製作は難しいことをご理解いただきたく存じます。》

慰安婦ドキュメント「主戦場」 デザキ監督の詐欺的手口 (2) 修士の終了期限に間に合わなくなる、という泣き落とし作戦である。最初のメールに比べると、文章の推敲が不十分で、誤字と文法的な間違いだらけだ。よほど急いで書いたのだろう。今から考えると、ここで「指導教官」という言葉が登場するのは注目に値する。出崎は「指導教官」の指導を絶えず受けながら卒業制作と称する作業に励んでいたのである。だとすれば、出崎の詐欺的行為に「指導教官」も最初からかんでいたことになる。  このメールを受け取ったとき、藤岡は〈出崎の「提案」なるものはあまりに微温的で、取材対象者の権利を守るための役には立たない〉と思った。藤岡はすぐに返答せずに、「十三日から十九日まで、ジュネーブとパリに行ってきます。帰国後、相談しましょう」と返答した(九月十三日)。

(続く)

Follow by Email
Facebook
Twitter